◆測量人の風景
◆地図測量人の像
 先人が残したものの多くは地図であり、測量結果などの成果品ということになるが、史跡となると墓が多くなる。中には僅かだが、測量結果を示す測量標石や作られた構造物もあるが、その数は少ない。
 地図・測量人の銅像となると、これもわずかである。
それらの銅像は、後世になって偉人を顕彰するために建てられたものだけに、彼らの特徴やな偉業がその姿に現れる。屁理屈をこねながら、紙上で各地を訪ねてみることにする。
釧路市の幣舞公園にある松浦武四郎(1818- 1888)蝦夷地探険像は、従者となってひざまづくアイヌとともに形作られているが、アイヌの古老とおぼしき人の指差す先をみて記帳している姿は、いかにも松浦が彼らの意見に素直に耳を傾けているという感で、北海道の詳細な地名入り地図を作成する姿を彷彿させる。
 また、これも北海道天塩町の鏡沼海浜公園には右手をかざして遠くを眺めている松浦が建っているが、額に近づけた右手には筆が、左手には野帳が握られている。何れの松浦も、武士風の身なりではないが、面長な顔立ちには芯の強そうなところが感じられる。

いよいよ、伊能忠敬(1745- 1818)ということになるが、彼の像は、佐原市の諏訪神社境内と佐原小学校、そして九十九里町の生誕の地に先ごろ建てられたものがある。
 諏訪神社のそれは、大正 8年(1919)に建造されたもので、大きさといい、形といい堂々としており、左右の手には野帳と筆が配されており、伝えられるところでは、方位の観測に差し支えるので金属は身につけなかったというから、竹光であろうか、大小を差している。
 左手にはその方位を測るのに使用された、「杖先方位盤」と呼ばれる測量器が立っている。これは、常に水平を保つように工夫されたアリダートと方位磁針を組み合わせた「小方儀」である。
 佐原小学校にも、同じように筆と野帳を持った忠敬の像があり、これは昭和42年に建てられた。場所柄のせいか、威風堂々というよりは勉学の人という風である。
 また、生誕の地にも最近忠敬像が建てられた。
 パンフレットの歌い文句には「象限儀を用いて天測をするダイナミックな翁の像」とある。右手を腰のやや後ろにおいて、左手を上げて指さしている像の面は、生地という場所柄のせいか心持ち柔らかに見えて、腰に刀はない。

東京北区には、近藤重蔵(1771- 1829)の甲冑姿の像がある。千島・蝦夷地探険で有名な近藤重蔵の像は、六尺豊かな体躯であったといわれ、少年時代は神童と呼ばれ、最上徳内らとの蝦夷地探険をした血気盛んな青壮年時代を経て、紅葉山文庫を所管する書物奉行から大阪弓奉行を任ぜられた。しかし、その後半生は波瀾万丈であった。その原因は、長子が隣家一家七人を殺傷したことによる。
 事件に連座して、幽閉生活となった後半生は悔いの残るものであったに違いないが、その時の蟄居先となった、近江の植物年鑑誌を著したことには敬服する。ここに残された像は、小ぶりで損傷もあるから、詳しい表情は読みとれないが、同様な甲冑姿の肖像画が残されていて、それを見る限りは、きりりとした眉と眼、甲の下のふっくらとした面には長いもみあげも見える。この像は、北方探険で活躍した輝かしい業績を残したころのものだろうか。

羽村市の多摩川縁には、有名な玉川兄弟の像がある。兄弟は、特に水準測量に苦慮したと思われ、線香の束を竹竿にくくりつけたものや提灯の明かりを利用したといわれるが、残念ながら昭和33年に作られた像にその様子は見られない。
 右手を指さし、左手に測縄だろうか紐のようなものを持って立つ兄と、右手に杖状のものを持ち片膝をついた弟の像からは、兄弟が協力して困難にあたった様子が見える。
 東京にはもう一つ、初代陸地測量部長であった小菅智淵(1832- 1899)の像が芝公園に、これはあったということになる。残された写真からは、髭を蓄え、右手に地図、左手にサーベルを持った軍服姿で、いかにも凛とした明治期の軍人に見える。
 もちろん小菅は、「全国測量速成意見」を具申し、陸地測量部とその後の地形図整備の基礎を築いた人である。
 後輩の弁によるところの小菅はというと、「短躯ながら寛厚豊潤、接する者に春風駘蕩を感じさせるる君子であった」。また、愛娘の回想では、「いつもにこにことして笑みを含み、言葉柔らかにして諄々と説き聴かせ、嘗て一度も大声を出して叱るなどありませんでした」という。
 このような人柄を示す小菅の像は、残念ながら太平洋戦争の際に供出されたまま残っていない。
四国坂出市には、久米栄左衛門(1780- 1841)の像がある。
久米については、馴染みが少ないので、やや詳しく紹介すると。
 讃岐郡引田郷馬宿村(現香川県引田町)に船舵作り職人の子として生ま、子供のころから天文地理に興味を持ち、寛政10年(1798)19歳の時には、大阪の間重富の門に入り、その後 4年の間、数学と天文・地理・測量を学んだ。
 文化 3年(1806)高松藩の藩内測量を命ぜられ、その際には測量機器、八分儀、象限儀、地平儀、星目鏡などを使用した。
 文化 5年の伊能忠敬の讃岐での測量には、案内役として参加し、文化 6年には(1809)高松藩天文測量方に命ぜられ、後年は、藩の財政立て直し、洋式鉄砲の研究開発、測量技術を生かした干拓工事や塩田開発、別子銅山の改修、遠州での港湾工事などのほか、揚水機、精米機の考案なども手がけ、地域の産業振興全般に渡って功績を残した。当時の科学者・技術者に共通な多才な人であり、特に、現坂出市新開での、大がかりな塩田開発に成功したことが有名である。
 昭和 9年に、地元住民が彼の功績を記念して、右手に望遠鏡を持ち、坂出塩田を見つめる栄左右衛門の銅像を建立した。拳を握りしめ、左足を踏み出すように立つ栄左衛門の堂々とした像からは、大きなプロジェクトを差配するの指揮者として厳しい目と、科学者としての聡明そうな姿が見える。
最後に紹介するのは、北海道の洞爺湖に近い昭和新山の麓にある、三松正夫(1888- 1977)の測量する像」である。この像は、調査用の鞄を提げた細身で長身の三松がトランシットに向かっている珍しいもので、平成 5年に建てられた。
 彼は、麦畑から隆起する新山の様子を毎日同じ位置から几帳面に記録した。その成果はミツマツダイヤグラムとして世に知られている。さらに火山研究者とともに測量を含む調査を行ったといわれているが、トランシットを用いて実際に観測をしたのであろうか。
 駆け足で各地に残る地図・測量人の像を巡ってみたが、読者はどんな感想を持っただろうか。この後も、銅像になって後世に誇れる地図・測量人が現れることを期待してみよう。
稚内市の宗谷岬には、間宮林蔵(1780- 1844)の像がある。これは、生誕200年を記念して建てられたもので、右肩には海上測量に使われたのだろうか、「縄索(じょうさく)」といわれる浮きのついた測量鎖が掛けられ、右手でしっかりとこれを握りしめている。左手には地図を持つ、二本差しの頑強そうな体躯が見据える先は遙か彼方である。執拗に調査を続け、ついに単独行で樺太北部から中国東北部まで探検し、「樺太」が島であることを確かめた執念が感じられる。モデルとしたのは、林蔵の六十六回忌に志賀重昂が松岡英丘に描かせた肖像画であるという。
 また、茨城県の生家に近い藤代町の小貝川岡堰のほとりにも林蔵像がある。左手を刀に置いた、やや小柄ながら、きりりとした姿は、探検家としてよりも早足で各地を巡る幕府役人、後年の隠密としての林蔵を思わせる。
初代陸地測量部長 小菅智淵(現存なし) 明治用水の基礎を築いた都筑弥厚(愛知県安城市)
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